岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ

「回想のヴィトゲンシュタイン」上映

2月14日[金]-2月22日[土]午後2時~/午後4時~ (2月15日は上映なし。2月16日は午後4時~のみ)

「岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ」関連イベント

8ミリ映画「回想のヴィトゲンシュタイン」上映


岡﨑乾二郎が制作した唯一の映画作品。


【制作年】 1988年
【上映時間】1時間
【上映日時】
2月14日[金]午後2時~/午後4時~
2月16日[日]午後4時~
2月18日[火]午後2時~/午後4時~
2月19日[水]午後2時~/午後4時~
2月20日[木]午後2時~/午後4時~
2月21日[金]午後2時~/午後4時~
2月22日[土]午後2時~/午後4時~

「アトムについて」(8ミリ映画『回想のヴィトゲンシュタイン」への想起(そのひとつ))より抜粋

さて、もし無数の写真の集まりが映画なのだとすれば、比喩として、映画はもちろん、天体=星座に似ているということになるだろう。しかし星座はあまりにも遠すぎて動いて見えることはない。反対にいえば、同じ星座を観察する世界の様々の場所の差が互いにあまりに、近すぎて、星座は動いて見えない。いや正確にいえば、星座、天体を見ているわれわれ(が位置する星)自身が、その天体の中に含まれるひとつの星であるゆえに、正しく動きを観測できない。 星座は、だから、人の人格と呼ばれるものに、とてもよく似ている(Twinkle, twinkle, little star, How I wonder what you are.)。さらにいえば、星座に対する態度は、死者に対する態度そのものである。いつでも星座は、永遠に死んでいる、というべきか?

だが、もちろん違う! 星座こそ、大きな一瞬の花火=ビッグバンだった。それは爆発であり、われわれがとらえることの不可能な高速度の運動である。にもかかわらずそれが花火に見えないのは、われわれが、そのあまりにも短い(近い)時間(空間)の中の一部として閉じ込められているからである。ゆえに、その短さを長大な時間と、はかり損ねているからである。一言でいえば、それは星座に対する、われわれ人間が──自らアトムとして(なんとちっぽけな心のアトムであることか?)行う──、(短すぎ、せっかちすぎる)反跳に由来する。

エピクロスの考えを要約しておけば、反跳は空間に帰属しない(すなわち、それは図形として一般化されえない)。反跳とは、アトムそれぞれに、その特異性そのものとして内在化されたものなのである(それは、アトムのそれぞれの跳び方、逸れ方だ)。それこそが時間であり(すなわち、さまざまな時間がある)感覚、つまり生そのものなのである。Vivre sa vie. そこには中心としてのひとつの点、ひとつの線があるのではなく、原子=アトムとしての無数の光の運動、生がある。 もし星座が永遠であるのであれば、花火は星座である。それは永遠だ(。もちろん、花火以上のスピードで空を飛ぶことのできる、アトムにはそう見えたに違いない)。星座と花火は同じだと。 だから、フィルムとはアトムであり、映画とはアトムとアトムすなわちフィルムとフィルムの反跳として、そしてそれに対する、われわれもまたアトムの反跳として、はじめて映画として見える。(ゆえに、せっかちな人間には見えない人もいる)。エピクロスの教えに従って。

というわけでアトムが持つように映画は魂を持つ。 アトムが魂を持たないならば、映画などどこにも存在しない。

https://kagakuukan.org/jpn/texts/ludwig_wittgenstein_a_memoir

 

 
期間  : 2月14日[金]-2月22日[土]午後2時~/午後4時~ (2月15日は上映なし。2月16日は午後4時~のみ)
会場  : 美術館1階講堂

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