Collection

コレクション

岸田 劉生 (きしだ・りゅうせい)

[1891 - 1929 ]

鯰坊主 [1922年 (大正11)]

  • 油彩、板
    41.1×31.5cm

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まるで写楽の役者絵のようにぬっと突き出した顔。薄暗い背景のなかとで彩られた顔や手の生々しく妖しい印象が、強く記憶に残ります。 「」とは歌舞伎の演目「」で、であり道化も演じる役柄です。岸田劉生は七代目澤村宗十郎が演じる「鯰坊主」に感激し、この作品を制作しました。彼は歌舞伎の絵を何点も残していますが、役者一人の顔を画面に大きく描いたのはこの作品だけです。 劉生は1919年に初めて訪れた京都で古美術を鑑賞して以来、歌舞伎や肉筆浮世絵に強く魅かれていました。劉生はそれらに共通する、汗でぬめるような生命力あふれる美しさを、「でろり」と言い表しました。陰影を極力控え油絵具で平面的に描かれたこの作品は、劉生が追究した「でろり」の典型といえるでしょう。

麗子洋装之図 (青果持テル) [1921年 (大正10)]

  • 水彩、紙
    50.6×34.6cm

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青いりんごを手にして座る7歳の麗子。赤いチェックのワンピースは飾りボタンやビロードの襟がおしゃれです。きゃしゃな両手に幼さを残しつつ、表情はどこか大人びています。 実際の麗子は切れ長の目をした可愛らしい女の子でした。しかし劉生は成長する愛娘を記録として描くのではなく、〈麗子像〉を通じてこの頃関心を寄せていた東洋芸術に拠る美の深化を試みます。 1921年は劉生が水彩画に力を注いでいた時期でもあります。「充分その美を理解し切ってきて、いきなりそれを表現する」のは「水彩でなくては出せない味」と言い、水彩絵具の特長を生かした作品を残しました。 麗子もまた、モデルをして足がしびれることがあっても父の役に立てるのが幼心にうれしく誇らしかったと回想しています。

代々木附近 [1915年 (大正4)]

  • 油彩、カンヴァス
    37.7×45.4cm

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画面の下半分に、赤土が露となった起伏のある土地が、まるで生き物のような量感で描かれています。土、空、草木、それらを横切る塀と、それぞれの色も印象的です。 画面右の労働者や、坂の途中の電信柱は、この場所がこれから宅地に変容することをうかがわせます。坂には人影も見えます。劉生は「自画像です、想像で加へました。」と書き残していますが、電信柱の陰には他にも誰かいるようです。この作品が描かれた前の年に、劉生に愛娘・麗子が生まれたと聞くと、それは劉生と家族のようにも思えます。 当時劉生がことのほか気に入り、いくつもの秀作を描いたのが、造成中の東京・代々木でした。なかでも少し離れた場所から描かれたこの作品は、都市の拡大でこの高台がまさに変わりゆく瞬間をとらえています。

自画像 [1913年 (大正2)]

  • 油彩、カンヴァス
    45.6×38.0cm

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明るい黄土色を背景に、こちらを見つめる人物は22歳の岸田劉生本人です。自分自身でありながら、対象物の本質をつかもうとするような力のこもったタッチで描かれています。 劉生は1913年から翌年にかけて、集中して自画像を制作しました。妻や友人の肖像画もひたすら描いて「劉生の首狩り」と称されたのもこの頃のことです。 劉生はよく作品に、サインだけでなく完成した年月日を書き込みました。日付順に作品を並べてみると、1913年前後は短期間で作風が大きく変化しており、人並み以上のすさまじい集中力と探求心で、画家としての高みを目指そうとしたことがうかがえます。 この作品の右上には「25th.DIC・1913」。つまり1913年のクリスマスに完成した作品です。

横臥裸婦 [1913年 (大正2)]

  • 油彩、カンヴァス
    45.5×53.0cm

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横たわる裸婦の首から膝までが、指先で絵具をおくような筆遣いで描かれています。首や手と比べると、それは女性の体でありながら山の起伏のようにも見えます。画家が胴体を描くのに集中していたことがわかります。 のちに劉生は当時を次のように回想しました。「一筆ごとに対象にぶつかり、その力と心を同化させ、心をその力に充ちさせて、跳ねらせながら筆をおいて行く。リズムといふ事、物にぶつかって取り組むといふ事、写実といふ事、これ等の事はこの頃本当に知り出したのである」。22歳の劉生は、ゴッホなどの影響を受けた当時の先端的な表現から、西洋の古典に感化された写実へと移行しようとするさなかにありました。 モデルは結婚したばかりの妻・です。大地を耕すかのような筆致で描かれたこのおなかに、間もなく娘・麗子が宿ることになります。

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