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ロンドンのある画廊がビル工事の騒音に悩まされていました。ドイツの作家ヨーゼフ・ボイスは、このフェルトのロールを画廊の床から天井までぎっしりと敷き詰めます。すると画廊は静寂に包まれた、ほのかに温かみのある空間へと一変しました。ボイスはこのように、芸術の概念を拡張し、現実の問題や歴史のひずみを癒そうと試みた作家としてひろく知られています。 ちょうど人間の皮膚と肉を暗示するように、それぞれのロールの内側にはフェルトの原料が詰められています。いっぽう、近づいてみてみれば、この茶色が意外なほど色彩豊かであることがわかるでしょう。ボイスはさまざまな繊維を圧縮したフェルトのカオスのなかから創造のエネルギーが発生することを期待していたのです。
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作家が愛用していた帽子が競馬のジョッキー帽のかたちに裁断され、内側に脂肪が満たされています。彼は人肌ほどの熱によってかたちをかえる脂肪を、彫刻に最も適した素材と考えていました。ここでも、柔らかい脂肪の表情が人間の感情の起伏や、柔軟さといった要素を連想させます。 いっぽう、この帽子が転倒していることにも注目しましょう。馬から振り落とされてしまったのでしょうか。だとしたら、2枚の新聞紙片に重ねられた赤い十字架には、現在の人間の文明にたいするボイスの批判的なまなざしとともに、それを癒そうとする彼の姿勢をもうかがうこともできるでしょう。 ボイスの人間観を簡潔に表わす小さくも力強いこの作品は、彼が亡くなる前年に60年代の新聞紙片を加えて制作されました。
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美術館や博物館に展示ケースが置いてあると、ふつうなにか貴重なものが入っているのだろうと考えます。ドイツの作家ヨーゼフ・ボイスはそれを逆手に取るように、1960年代から、博物館を思わせる展示ケースをあつらえ、そこに自身の作品や、彼がパフォーマンスで用いたもの、ゴミなど拾い集めてきたものを並べて作品として見せ始めます。そうすることで彼は個人的な物語と公的な歴史とをないまぜにしようと試みたのです。 この作品ではチンギス・ハーンがキーワードになっています。1921年にドイツに生まれたボイスにとって、他国に攻め入り領土を広げていく英雄は、若い時にはあこがれの存在であり、戦後は繰り返し考え直さねばならない対象でした。この展示ケースを含め、謎めいたそれぞれの構成要素が、そうしたどっちつかずの状態を生み出しています。